昭和41年05月09日 朝の御理解
願うても願うてもおかげにならん。どんなに縋っても思う様にならん。そう云う時に翻然として分からして頂くものは、惟だ、これがおかげの頂けん元だと、そこに信心をさして頂く者の信心の飛躍と云うか、信心の成長があると思う。働けど働けど吾が暮し楽にならずじっと手をみる、啄木の詩ですね。働いても働いても暮しは楽にならない。そう云う時に私共がじっと手を見るではなくて、じっと自分の心をです、本気で見極めて見る。自分達の有り方と云うものを振り返って見る。猛反省さして頂く。
そこに成程是ではおかげが受けられん筈だと云うものを発見する。そこからほんとの改まりと云うものが出来るのじゃないでしょうか。 何処を改まればいいのだろうかと思っていたものが、改まらにゃならん事の多いのに驚いてしまいます。これは昨日、御祈念の後に福岡から渡邊先生が参って来てからの言葉なんです。自分は、まあ相当信仰も深いと自分で思って居った。若い時から神様仏様縋らにゃおれんとそう云うものが、そう日蓮宗ですか、経文も覚えた。
朝晩のお勤めもしっかりさして頂いた。生長の家の芯にもなった。もう理屈での事ならもう分かる。云うなら一人前の信心が出来る様に思って居った。たまたま椛目にご縁を頂いて初めて天地の御恩徳を聞かせて頂いた時にです、こりゃ今迄の信心が間違っとったと気が付いた。こりゃもう椛目で助からなければ、本当に自分は助からないと思ったのが、今度頂いた時の渡邊先生の気持ちだった。
それでも矢張り今迄の信仰と云うものが無駄ではなかったな、今迄の信仰と云うものがあったから、金光教の信心がトントン拍子で分かると云う気持であった。そして最近いよいよギリギリの問題に直面して分かった事は、自分のは信仰ではなかった。信心ではなかった。何とはなしに宗教的であったと云う事に気が付いた。宗教ではなかった、宗教的であっただけの事。本当の信心とはそんなものじゃないと云う事を椛目の信心に依って開眼したと云うのである。
願っても願ってもおかげにならん事の中に、皆さんご承知の様にジュリスと云う制帽の学院の院長さんである。と同時に色々な公的な御用もしておられる人です。忙しい人です。最近様々な人間関係的な難儀に直面して、分からして頂く中の一つに今迄お手伝いさんが非常に恵まれておった、お手伝いさんに。ところが最近そのお手伝いさんが( ? )最近はその来ればと云うその大体お手伝いさんに来てくれる人がいない、ずい分あっちこっちに頼んではおるけれど、中々お手伝いさんが来てくれない。
お手伝いさんなしには自分の現在の仕事は出来ない。一生懸命それこそ願うに願われたんですね。所がその願っても願っても楽にならざる。願っても願ってもおかげにならんのです。おかげになる様であっておかげにならんのです。はあ是でお手伝いさんがと喜びよると束の間もう出て行かれるのです。今迄私の方は、お手伝いさんにはほんとに人が感心する位に恵まれておった。
ところがです、ほんとの信心の開眼と云うか、そう云う様な、金光様にお参りする様になったら、そんな難儀な事になって来たとこう云うのである。そこで、じっと手を見る様な事をせずに、じっと自分の心を見極める事に努める様に、だんだんなって来た訳なんですね。これは神様が、私にお手伝いさんを下さらないと云う事は、お前自身が一つお手伝いさんのところからやり直せと。
神様が言って居られると云う様な思いがすると云う事に。気が付いた、そう致しましたら先生。もう今迄実意丁寧神信心、何とか言って居りましたけれど、もうほんとにあまりにも実意の欠げておった、大ざっぱなものにもう驚きました。そうだ本気で一つ女中さんからお手伝いさんからやり直そうとこう思うたら、もう余りにも目の粗い自分の実意のない生活にびっくり致します。
本気で女中さんになろう、本気でお手伝いさんから始めようと言う事になってまいりましたら、もう家の中に一杯、私の御用のある事に気が付いた。この頃ちょっと新聞見せて頂いて居りましたら、はあっと、ああほんにお手伝いさんは御座らん、どんどんと新聞どん見とっちゃ出来んと新聞をかなぐり捨てて次の御用、女中さんがなさらにゃならん御用も次から次とさして頂いた。
院長としての又母親としての。先日なんかも長男が勤めから帰って来ましても、まあだ御飯の準備が出来てなかった。そんなら外で食べてきますよ。明日からそうしましょうかとこう言われて、ああ女中さんがおってから、そのそこの息子さんが帰って来ても御飯の準備もできていない。こんな事じゃ相済まぬと思うて、もう帰って来る何時間前時間を計って、買い出しから炊事の方から一生懸命やらして頂いた。
まあとに角よい女中さんになろう、実意丁寧な女中さんにならせて頂こうと云う事にもう一生懸命なんです。その合間を見てまあ御礼に出させて頂こう、まあ昨日はしきりに御神酒のお供がしたい。何時もの買付けの酒屋さんに行ったけれど、店が休みであった。そこで一先停留所のある向こうの所まで歩いて行って、ようやくそこで買い求めてから。昨日お参りして来られた。
そしたら昨日の御理解ですね。神様は御神酒が一番好きと云う事であったでしょうが、もうそれで大変な感激なんですよね。お供えでもそんな感激の伴うお供えでないといけませんですね。今自分が本気で、実意丁寧神信心に取り組んでいますので、それも最低の所から自分は女中さんからやり直して行こう、しかもその女中さんになるなら本気で行き届いた、実意丁寧な女中さんに成らせて頂こうと、奥様兼女中さんと云った様なものではなく、本気で女中さんになろうとこう実意をそこに込めさせて頂く所にです。
いわゆる神様の一番喜んで下さる御神酒がお供え出来たと云う事が昨日は有難うして堪らなかった。昨日私ここに見えた時に、こう云う様な私は御理解を聞いて貰った。渡邊先生、もう十二・三年もなるでしょうか、私がここにこうしておかげ頂く様になって一・二年間は私が先頭に立って共励会等に回らせて貰いました。以来私は今はもう参りませんけれど、当時はそうでした。
ある福岡の共励会に参りました時に、皆さんご承知の様に、もう一晩中が信心話で御座いました。寝む暇等ないのです。秋永先生所なんです。そして一番電車で帰って来るのです。もう二時までも三時までもお話し続けてから、さあちょっと寝ませて頂こうかとまだ一番電車までには一時間位ある。ちょっと寝ませて頂こうと御神前に寝ませて頂いた。そしたら何とそのもう一番電車の音がゴウーとして、はあしもうた一番電車がもう行きよると思いながら寝んどらんもんだから又ウトウトとやすみよった。
そしたらですね、もうほんとにもうほんとにびっくりする様な、三代金光様のお声でです、はっきりと神様が見ておいでで御座いますと云う言葉を頂いたのです。私が眠いと云う事も昨夜やすんでいないと云う事も私が一生懸命御用さして頂いていると云う事も、ああたが今眠い事も、神様はご承知なんですよと言われた時に、私は弾かれる様に起きて次の電車で帰って来た事があります。
渡邊先生私共の一切がです、言うておる事、為しておる事、いや思うておる事すらが神様が見通しである、見ておって下さるんだと思うたら、一生懸命の真心の限りと云うか神様に見られて。恥ずかしくない私でなければならないと云う事を思いますと、云ったら非常に私は今一生懸命女中さんがおられんから、女中さんがおって呉れんから、本気で女中さんにならさして頂こう。
何故私に、女中さんが居ってくれないのか、来ないのか、これは、神様が先づ女中さんから、やり直しだと言って居られるのだからと、云う気がして、本気で良い女中さんにならして貰おうと思うたら、余りにも、目の粗い自分であった。実意を欠いて居った自分であった事に。女中さんに対するところの、感謝の気持ちと云った様なものは、さらさらなかった自分に気が付いた。
自分とこはよそよりもそのもう給料も高い、待遇もいい。しかも帰る時にはいろんなものを勉強して習うて帰るから、家の女中さん位良いものはないと思いよった。だから女中さんに感謝の気持ちと云った様なものは、真実の所信心の上から云う所の感謝と云うものはなかった。自分がよい女中さんになって見て、本気で実の詰まった女中さんにならして頂こうと思ってみて。初めて女中さんの苦労と云うものが分かって来た。
そう云う女中さんを日々やっておられますから、そう云う事が神様は日々見ておいでで御座いますと云う事に、神様が私の今のこの姿を見ておって下さるのだと思う時にです、やりがいを感じ神様が見ておって下さるんだと思う時にです、その苦労も苦労じゃない有難い事になって来た。皆さんが皆さんの言うておられる事、思うておられる事、皆さんが本気で実意丁寧に務めておられる事の姿を、神様が見ておいでなので御座いますから。こんなに有難い事はないでしょう。
自分の今しておる事を人に認められると云う事だけでも何かしら有難いでしょう。皆さんが一生懸命信心をなさる修行なさる御用もなさる。それを神様がいちいち見て居って頂いて居ると云うので御座いますから、こんなに有難い事はないじゃないですか。自分はこんなに一生懸命御用さして貰いよるばってん、誰あれん御礼も言うちゃくれん認められないと云う様なさもしい心を出さないでも良い事が分かるじゃないですか。
夕夜私が眠っていない事も神様がご承知なのだ。神様が見ておって下さるのだ。昨日私渡邊先生の御取次さして頂いてから、願うても願うてもおかげにならん時、ただ一生懸命修行でもして願いを叶おうと云うのじゃなくて、自分自身の心の上に、どうして願っても願っても縋っても縋ってもおかげにならんのかと云う事を、自分の心の中に発見せねば駄目だと私は思う。
そして渡邊先生じゃないですけれど、成程女中さんが居付かぬ筈じゃ、本気で自分が女中さんになろう、なろうとこう思いだしたら、今迄女中さんに対する所の感謝の気持ちと云った様なものも欠けておった事、又自分の本当の女中さんに成り切れない事、目の粗い事。それこそ新聞一つ読まして頂くでも心使うて、今迄新聞どん読むのを当り前のごと思うとったけれども、女中さんが掃除もする、あれもする、その合間合間に、新聞を読まねば相済まぬと云う様なものが分かって来た。そうして自分がその女中さんに、修行に最低の所から自分が立ち上がろうとしておる。
その苦労を神様が見ておって下さると云う事が分かったら、その事が有難うなって来た。その有難いのがその、昨日のお神酒のお供に継ながっていたと云う所に、ほんとに神様が守って下さっておるんだと云うものを感じたと喜んで居られます。皆さんどうぞ皆さんの真心からの信心と云うか、お互いのあり方と云うものを神様は見通し聴き通し、誰に認められなくっても、御礼を云うて貰われんでも、それだけで有難いと云うおかげを頂かなければいけないと思いますね。
どうぞ。